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    <title>アサヒカメラ.net　ブックガイド</title>
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    <dc:date>2012-02-06 15:33:36</dc:date>
   <description>アサヒカメラ.net　ブックガイド</description>
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    <title>写真と生活</title>
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    <dc:date>2012-01-17</dc:date>
    <description>　平間至、金村修、ERIC、本城直季、石川直樹……。キャリアもジャンルも作風もバラバラな写真家12人のもとを訪ね歩いて話を聞き、これまでの歩みや、いかにして作品をつくっているのか、また日々の暮らしぶりにいたるまでを詳らかにしようとするのが本書。
写真家の半生と仕事をドキュメントする本は、これまでにいくつも例がある。長谷川明『写真を見る眼』、大竹昭子『眼の狩人』、飯沢耕太郎『ジャパニーズ・フォトグラファーズ』などなど。それら先行する類書と、この『写真と生活』が大きく違うのは、書き手の立場だ。
　
　長谷川らの書き手は編集者であったり評論家であったりと、写真を「見る」側にいる。対して『写真と生活』の著者・小林紀晴は第一線で活動する写真家であり、「撮る」「つくる」側の人間。写真家が写真家を訪ねて話を聞き、その作品と人物像を描き出すというところに、真似のできない絶対的な強みがある。
　広く知られるように小林は、小説も手がけ作家としての顔を持つので、書くことのプロフェッショナルでもある。それでも本書を読むかぎり、小林は取材へ赴く際、あくまでも写真家という立場から話を聞きに行っている。訪問を受けた写真家たちも、同じ悩みや問題を共有する相手として小林を受け入れ、安心しきってエピソードや自身の葛藤を語っているようにみえる。
　
　「写真家どうし」の効果は、随所に出ている。
たとえば藤代冥砂について書かれた章で小林は、常日頃から見せる藤代のこまやかな気遣いに感心し、着目する。そうした性格は、撮影現場であらゆる事柄に対応する大きな力になるはずと見抜き、それが「藤代の写真を特徴づけ、形成しているのかもしれない」と読み解く。同じ仕事をしている者ゆえ、藤代流の気遣いがいかに現場で活きるかよくわかるのだろう。
　野村佐紀子と対した際には、彼女がなぜ男性ヌードを撮りはじめ、どうしてかくも長く継続しているのかと食い下がる。作品のはじまりや制作時の考えについて、小林は異様なほどの関心を示すのだ。「私は常に作品が生まれるまでのこと、つまり思考の過程に興味がある」と本人は書く。そこに「その人らしさ」が最もよく出ると思うがゆえだ。おそらくは小林が作品を生み出すときも、思考の過程を何より大切にしているのであろうことが窺える。
　
　タイトルにまで付けているとおり、写真家たちの「生活」を中心テーマにして書いているのも、同業の写真家ならではというか、小林らしい。写真家は、「誰もが写真を撮ると同時に生計を立て、生きていかなくてはならない」。そのことをよく知る小林が、自分以外の同業者はどう「生活」しているのか関心を示すのはいわば当然だ。
　生活から切り込んでいくことは、それぞれの作品を知るうえでも大いに益がある。写真は基本的に目の前にあるものしか撮れないのだから、日々どこで何をして過ごしているのかが、そのまま写真の内容を決定づける。生活を知るとは、その人の写真を知ることに直結するのはたしかだろう。
　
　写真家たちの足跡を丹念に追い、そのときどきの思考を明らかにしてくれる小林の筆は、一つひとつの作品をよりよく読み解き、もっと好きになるきっかけを与えてくれている。


（山内宏泰）<br/></description>
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  <item rdf:about="http://www.asahicamera.net/info/bookguide/detail.php?idx=74">
    <title>光あるうちに  Walk While ye have the light</title>
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    <dc:date>2012-01-16</dc:date>
    <description>　文学的な写真だ、と以前「光あるうちに」シリーズの展覧会を見ながら呻いたことがある。文学的、という言葉がなにを形容するのかは自分でもよくわからないが、原芳市の写真について言えることがあるとすれば、彼の撮るイメージのいずれもがみな、時間という不可視の概念について考えることなしには、語ることができないということに尽きる。『光あるうちに』には、視覚的な好奇心を充たしてくれるような、図像の刺激的な断絶や飛躍がない代わりに、われわれの世界が避けがたく時の拘束の下に置かれているという事実が、ささやかだが、しかし確実に表象されている。

 「光あるうちに」という、まるで余命わずかであることの宣告にも似た儚げなタイトルに援けを得て、一連の写真がある種の切迫感を帯びてわれわれの眼に飛びこんでくる。日没という、光彩の記録者としての写真家にとっては不滅の敵手のごとき瞬間……その黙示録的な時の一点に絶えず戦慄しながら、それでもなお、すべてのイメージが、光によって、力強く結ばれているかのようだ。

　ジュゼッペ・ウンガレッティの詩の一節、「歳月から解き放たれ、失われた／背光のなかで、時の歩みだけがひたすら／ぼくらの褥（しとね）になるだろう。」（河島英昭訳）を思い出す。手にした花も、雲間に霞んだ高層ビルも、あるいは列車を待ちながら書物を繙く少女も、あらわな姿態のストリッパーも、何もかもがみな、光を失えばたちまち「時の歩み」の中へ暗く沈んでゆく影と変わるだろう。あらゆる事物が渾然となる無明の闇の中で、それらもまた空虚な時の一部となるだろう……。光の失せる時刻をめぐる観想は、こうして、ゆっくりと存在論的な疑念にすり替えられてゆく。

　写真家が幕引きに選んだ言葉は、「世の中は夢かうつゝか　うつゝとも夢とも知らず　ありてなければ」という古今集からの引用だ。いまこの瞬間に相対している画像が、現実のものか、それとも夢幻の形象であるのか。その問いに生身で立ち向かうためにも、「光あるうちに」光の中を進まなければならないのだろう。たとえそれが刹那的なものであると、初めからわかっているにせよ。

（細谷勇作）



原芳市（はら・よしいち）
1948年東京生まれ。千代田デザイン写真学園中退。写真集に『風媒花』『ストリッパー図鑑』『淑女録』『曼陀羅図鑑』『ザ・ストリッパー』（全三巻）『影山莉菜伝説』『現の闇』など。著作に『ぼくのジプシー・ローズ』『ストリップのある街』など。個展多数。<br/></description>
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  <item rdf:about="http://www.asahicamera.net/info/bookguide/detail.php?idx=73">
    <title>Silence</title>
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    <dc:date>2011-12-12</dc:date>
    <description>　魂が震えるような歓喜や、底知れぬ絶望や不安で目の前の光景が覆い尽くされたとき、世界から音が消える。
　この写真集には、中村紋子がレンズを通して見た、そんな “音のない世界”の光景が収められている。誰もが経験する生と死。その強い実感を一個人として突き詰めたいという想いから、2007年に撮影を開始した三部作の第一作目。絵画や文章でも表現をする彼女の、写真による試みだ。

　ページをめくると現れるのは、中村が日常の中で遭遇した光景の数々だ。水槽の中をたゆたう金魚、ホルマリン漬けのトカゲ、夜空に浮かぶ雲、クローズアップされたブーケ、出産のときを待つ母親の横顔……。耳を澄ましたり、息をひそめたり、目を見開いたりしてじっと佇むとき、自分の身のまわりが深い静けさに埋め尽くされることがあるが、中村が見つめたさまざまな光景からは、そんな深い静寂のありさまが、そのまま伝わってくるように思う。
　
　生成と消滅が繰り返される日々の中で中村がとらえようとしたのは、自身の深部にある“闇”だという。路上で白骨化した鳥や剥製の熊などは直接的な例だが、中村の視線は、被写体が持つ一連の闇の部分に向かっている。それと同時に、ところどころイメージからは、僅かだが、“光”の気配も浮かび上がっている。たとえば群れの中でただ一羽の白い鳩が淡い陽光を浴びている様などだ。

　誰しも、この世は生きるに値する場所だと思いたいはずだ。そう人が確信する力は、心の中にきっと持っているはずの、何かのよりどころを照らしてくれる“光”によって湧いてくるのかもしれない。中村はその光を、数多の闇とともにそっとさし差し出しているようにも感じられた。


（迫田純果）



中村紋子（なかむら・あやこ）
1979年生まれ。写真家としての発表のほかに、イラストレーション、コラム執筆などでも活動。東京工芸大学芸術学部写真学科、同大学院でメディアアート専攻写真領域を卒業。在学中は細江英公の研究室に所属。個展の開催、グループ展の参加にも精力的。<br/></description>
  </item>  
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    <title>ｌas barcas 1</title>
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    <dc:date>2011-11-04</dc:date>
    <description>　沖縄の土地の匂い、ひとびとの思考にそのまま触れることができるような雑誌が生まれた。沖縄を中心に活動するアーティスト、キュレーターや研究者が集まり、さまざまなジャンルの表現を発表する場として雑誌「las barcas」の第1号を刊行したのだ。主宰は写真家の仲宗根香織。編集は井上間従文、岡田有美子、新城郁夫、濱治佳、山城知佳子。その他にも、さまざまな人の手による写真、批評、小説などが掲載され、裏表紙には吉増剛造の詩も寄せられた。
　
「las barcas」とは、小舟という意味のスペイン語だ。掲載されている作品は、水に浮かんだかずかずの小舟のように、統一された方向に向かうのではなく、多様なテーマを担っており、それぞれに漂っている。崎浜慎の小説「極楽鳥花」では、沖縄の自然の強い色彩、その美しさと熱気のなかで生きる男女の姿が描かれる。一方で、井上間従文や新城郁夫の論文では、かつての沖縄戦や、米軍基地の問題、ひいては東日本大震災が取り上げられている。時折挟まれる白木游、根間智子、山城知佳子などの風景や人物をとらえた写真作品が、静謐な、しかし強い印象を与えていく。読み手は、沖縄の歴史的背景や現状を振り返り、自身の意識を問い直しながら、感覚的な刺激をも受けて行くことになる。

　なかでも、パフォーマーの川口隆夫とアートイベントの企画・運営などを行う岡田有美子との往復書簡が印象深い。川口が沖縄を訪ねて滞在制作を行うことになり、沖縄の社会的な問題への意識を高めて準備を行うが、川口を招いた岡田に、「沖縄ということにあまりとらわれないで作品を作ってほしい」と言われ、自分が何を生み出すべきか苦悩してしまったのだ。そんな川口の姿を見た岡田も、どのような言葉をかけるべきか迷い続けた。そんな顛末を二人が振り返るこの往復書簡は、「思考するプロセス全体が、それ自体が、作品となる」という言葉に着地していく。この二人の葛藤は、今この雑誌を手にしている私たちと、この雑誌を世に放ったメンバーたちとの間にあるものそのままに思われてくる。

　社会的問題への葛藤や、作品が与える刺激の果てには、安易な答えは用意されていない。しかし、そこで生じる感覚は、表現を放つ者、受け止める者を繋いでいく。

　この雑誌をめくることは、表現者たちの小さな舟に同乗し、揺れをともに感じることだ。まずは、舟のなかから差し伸べられた表現者たちの力強い手を握ることが、頭脳と身体をすべて使って沖縄に改めて出会う体験のはじまりなのである。


（桐谷 麗了子）


las barcasホームページ：http://lasbarcas.jimdo.com/<br/></description>
  </item>  
  <item rdf:about="http://www.asahicamera.net/info/bookguide/detail.php?idx=71">
    <title>BAZOOKA  スケボー魂</title>
    <link>http://www.asahicamera.net/info/bookguide/detail.php?idx=71</link>
    <dc:date>2011-10-01</dc:date>
    <description>　愛嬌のある大きな顔。だらりと垂れた舌。バズーカは、オールド・イングリッシュ・ブルドックという種類の犬である。しかし、ただの犬ではない。スケートボードに乗る犬なのだ。それも、これまで多数のメディアで取り上げられてきた筋金入りの「スケボー犬」なのである。『BAZOOKA スケボー魂』は、そんなバズーカのスケートボードへの愛をとらえた熱き写真集だ。

　バズーカは前足でスケートボードに乗り、後ろ足で地面を蹴る。勢いがつけば、全身で乗ってバランスをとり、器用にコーナリングもできてしまう。ただ、普段は他の犬とそれほど変わらないように見える。犬同士で無邪気にじゃれ合う姿も微笑ましい。

　しかし、写真集のページをめくっていくと、バズーカがただならぬ犬であることがだんだんわかってくる。カメラは地面すれすれでバズーカの姿を追いかけ、バズーカが見る景色を私たちにも教えてくれる。スケートボードが加速度を増すと、視界は流れて、ついにはまわりのものが判別できないまでになる。まるで自分自身が風になったような感覚が生まれる。写真集によって、バズーカが何に夢中になっているのかを、私たちも体感できるのだ。

　バズーカは、自分の足で走るのではなく、スケートボードとともに風と一体になる快感を知っている。「ただ滑るのではなく、もっと上手に！ もっと速く！」そうバズーカは考えているのではないだろうか。噛まれ、使い込まれてボロボロになったスケートボードが何枚も並べられた様に、なんだか胸が熱くなってしまう。

　スケボー青年とともに傾斜を滑り落ち、子供たちに騒がれて、観光客には写真を撮られる。公園で、富士山を望む広い道路で、バズーカがスケートボードに乗る姿がどうにもかっこよく見えてしまうのは、彼が小さな身体のすみずみまで喜びを満たし、挑戦を続ける誇り高い生き方を貫いているからだ。ほっこりと癒されようと手に取れば、バズーカの勇気に励まされる。不思議と力の湧く一冊である。

（桐谷 麗了子）<br/></description>
  </item>  
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    <title>『愛をこめて』</title>
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    <dc:date>2011-09-30</dc:date>
    <description>　「目の前に微笑んでいるのは、あのチェ・ゲバラの長女であった。もう一度くり返すが、あのチェ・ゲバラの娘である。」この書き出しがすでに刺激的である。撮影などの目的で訪れた数々の土地を思い出しながら藤代冥砂が書いた、軽快なトラヴェローグ14篇を集めたものが本書。ハバナ、香港、セドナ、チンクエ・テッレ。もちろん国内へも写真家は赴く。小笠原諸島に、五島列島に、沖縄。写真をめぐる話題はほとんど出てこない代わりに、旅先から家族に宛てて送られた絵葉書が、ばらばらに散らばる土地での体験を「愛」というキーワードの下に結んでいる。

　藤代冥砂の初期の代表作『ライド ライド ライド』のスタイルを期待していると、ひょいとかわされてしまう。これは冒険譚ではない。代わりに、見知らぬ土地での新鮮な見聞がじつに爽やかに綴られている。小笠原では、野性のイルカとの海中のランデヴー。チンクエ・テッレでの手紙をめぐる思いがけないアクシデント。そしてセドナの山上での神秘的な日の出。『ライド……』ではぐいぐいと手を引かれるような読み心地があったが、ここでは瑞々しい口調が、わたしたちに静かな旅情を喚びさましてくれる。これはこれで快い読書体験である。

　本書には旅先から投函された絵葉書がところどころに掲載されていて、これがとてもいい。急いで書かれたのだろうか、ちょっと間の抜けた、飄々とした文字が、異国情緒にあふれたポストカードの裏にしたためられている。簡素な文面のものもあれば、若者のラヴレターのように熱い感情がこめられたものまで。そして妻と子に送る便りの最後には、必ず「愛をこめて」と添えられている。家族を残してひとり各地を旅をする写真家にとっては、美しいランドスケープや異言語を語る人びとに孤独なレンズを向けるよりも、「愛をこめて」と文章を結ぶことのほうが、幸福な時間であるのかもしれない。そして郵便ポストの中の暗闇に向けて手紙を投げこむその行為は、もしかしたら、どこかで写真に通じるものがあるのかもしれない。

（細谷勇作）<br/></description>
  </item>  
  <item rdf:about="http://www.asahicamera.net/info/bookguide/detail.php?idx=69">
    <title>カスババ</title>
    <link>http://www.asahicamera.net/info/bookguide/detail.php?idx=69</link>
    <dc:date>2011-08-31</dc:date>
    <description>　「カス」のような「場」、その複数形としての「カス場々」だという。なにが「カス」なものかと写真集を開いてみる。するとたしかに荘厳なランドスケープは見当たらない。裸の美男美女もいない。生死にまつわるショッキングな出来事もない。通行人の無表情や、ビルディングにかこまれて閉塞感たっぷりの青空や、見るべきものも何もない街路ばかりが、累々と続いてやがておしまいである。ナルホド、これが「カス場々」か、とまずは驚きと納得ばかりが印象の先に立つ。
　
　そういえば、スイス系ドイツ人の現代美術家ディーター・ロスが、悪ふざけみたいなドローイングを数百ページと積みあげてすばらしい作品集をつくっていた。『カスババ』に見られる写真家の執着もどこかそれに似ている。だが、これをコンセプチュアルアートの文脈から解釈しようとするなら、おそらく読み誤るだろう。「カス場」を見つめる写真家の目は、あくまでも“写真的”だからである。審美的な意識は奮い立たない。それは当然のことなのだ。そのことをゼロ地点として、もう一度じっくりと見直してみよう。救いがたい空間、美しくないイメージを、いかに「カス場」らしさを奪わぬままで写真とするか。このときの写真家の目を拝んでみたいものだ。そうして撮られた写真は、構図もピントもばっちり決まっていてじつに明快である。感動を呼び起こす対象が具体的に存在しないだけに、意味や方法論がブレることもなく、ただ写真としてシンプルに完結している。
　
　一種のドキュメンタリーのように見えるのは、そのためなのかもしれない。大小さまざまの個人的記憶が、ここでは群衆のごとくせめぎ合っている。東京都内の住人なら特にその思いは強いはずである。いくつもの既視の風景と写真集の中で再会することになるだろうから。この交差点のそばの喫茶店で恋人と食事した、この踏切の向こうにむかし住んでいたマンションがあった……そうした個人的な事柄を写真家の足跡と並べることができたら、この本がもっと身近に感じられることだろう。

（細谷勇作）<br/></description>
  </item>  
  <item rdf:about="http://www.asahicamera.net/info/bookguide/detail.php?idx=68">
    <title>ILLUMINANCE</title>
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    <dc:date>2011-07-12</dc:date>
    <description>　涙が出るほどのパーフェクトな、美しすぎる瞬間。それはたしかにあり、写真を通して気づくものなのかもしれない。川内倫子はかつてインタビューでそう語ってくれたものだ。12冊目の写真集『ILLUMINANCE』は、15年もの間に撮影した写真を編纂したものだという。クラシックな布張りの表紙は古いアルバムを思わせ、この一連の写真が、とても個人的な生活や経験と密接につながる、大切にしまわれてきたものであることが伝わる。

　これは光についての、写真家の敬虔な告白のような写真集だ。光を奪われた皆既日食から始まるその告白は、自然界のアナロギアの法則にも心を配りながら、森羅万象に宿る光の在処を丹念にたしかめてゆく。砂の上でゆらぐキャンドルの光と、目を射るような木漏れ日の光。レントゲン写真の骨を透過する蒼白い光と、濃紺の闇を突きやぶる稲妻。ダイアモンドの屈折した光の飛沫と、蓮の葉に転がるガラス玉のような露。無常の世のスパイラルのなかで同調しあう、いくつもの奇跡の瞬間が、心にくいリズムで併置されていく。

　「ありふれた日常を撮る」多くの写真家と彼女が一線を画してきたのは、日常を過大評価することなく、研ぎすまされた美しさだけを追い求めてきた、その鋭敏すぎるほどの感受性である。見慣れたものと驚きに満ちたもの。みずみずしいものと枯れかけたもの。生まれいづるものと死にゆくもの。優劣も境界もなく、すべてが混在する世界を前にしたときの眩さと畏れから目をそらさず、真っ直ぐに見つめる清涼な視線が、川内の写真に崇高な光をもたらす。日常のありふれた事象の刻むリズムに、その時々の感受性の微かなふるえが奏でる旋律をのせ、写真集はいつしか一編の組曲となって、人々に歌い継がれるのだ。多くの写真家がそうであるように、川内は写真を撮ることで強さを身につけてきた人だと思う。15年を経て姿を現した『ILLUMINANCE』は、観る者の感情をぐいと引き上げてくれるほどの強靭さをもそなえていた。

（住吉智恵）<br/></description>
  </item>  
  <item rdf:about="http://www.asahicamera.net/info/bookguide/detail.php?idx=67">
    <title>写真のプロフェッショナル</title>
    <link>http://www.asahicamera.net/info/bookguide/detail.php?idx=67</link>
    <dc:date>2011-06-06</dc:date>
    <description>　数々のメディアで写真、美術、カルチャーについて執筆している山内宏泰が、写真の現場を駆けまわり、写真家、ギャラリスト、出版社社長や批評家からカメラ付き携帯電話の開発者まで、写真にたずさわる人物総勢71名にインタビューを敢行。写真の「今」をまるごと取り出してみせたのが本書だ。

　巻頭に約90ページにもわたり掲載されたカラー図版では、多彩な写真家の代表的な作品が並ぶ。森山大道の犬の写真、篠山紀信が撮った女優・宮沢りえのヌードや鷹野隆大の男性ヌード、梅佳代がとらえた子どもの表情や、HIROMIX、蜷川実花のセルフポートレート……。

　山内は、「写真に本気で関わり、心から楽しんでいる人は、すべからくプロと呼ぶ」と語る。この基準が、取り上げられる対象の多様さにつながっている。そして、報道、広告、アートや私生活と、私たちの日々の営みのすみずみにまでプロの目を通過した写真が入り込んでいることを実感させてくれる。

　インタヴューで語られる個々の在り方もさまざまだ。たとえば、報道カメラマン・宮嶋茂樹が語るのは、現場で自身にしか撮れない一枚をもぎ取ろうとする覚悟だ。一方、長崎や沖縄を生活及び表現の拠点とし、原爆や基地と長年向きあってきた写真家・東松照明は、感性と直感に裏打ちされた「まばたきのリズム」で写真を撮っていると言い、撮った写真を厳密な目で選別することの重要性を語っている。さらに、『月刊アクトレス』シリーズの元編集長・宮本和英が力説するのは、日本独自の発展を遂げた文化としてのグラビア写真の魅力だ。

　同じ時代を生き、写真という共通項を持ちながら、それぞれにまったく異なる人物像が浮き彫りになっていくインタヴュー。では、自分も彼らと時代を共有する者として、いかに写真と関わり、どのように楽しもうか。そう考えたとき、鑑賞者である私たちでさえ、「写真のプロフェッショナル」となる入り口に立たされていることに気付く。

　読みやすく気軽に手に取れる本ながら、読む者の創造力を刺激する重量感ある一冊だ。

（桐谷　麗了子）<br/></description>
  </item>  
  <item rdf:about="http://www.asahicamera.net/info/bookguide/detail.php?idx=66">
    <title>レンズ至上主義！（平凡社新書）</title>
    <link>http://www.asahicamera.net/info/bookguide/detail.php?idx=66</link>
    <dc:date>2011-05-26</dc:date>
    <description>　同じ平凡社新書の『カメラ至上主義！』や、平凡社からの単行本である『銀塩カメラ至上主義!』に続く、“至上主義シリーズ”第三弾である（そういうシリーズがあるのかどうかは知らないが）。次作はぜひ『アクセサリー至上主義！』など出して欲しいものである。
　それはさておき、デジタルカメラが当然のこととなってもう数年。いまやカメラボディーとは、CCDやCMOSなどのセンサーに映像を記録させ、それをメモリーカードに読み込ませる装置であるという認識が普通となった。その一方、レンズに関しては一見フィルム時代と変わらないように思われがちだが、実はデジタル化にともない劇的な変化を遂げている。
　
　そんな最新レンズの情報をふんだんに盛り込み、実践的なレンズ選びのガイドとしての役割も果たす本書であるが、そこは赤城耕一、随所にヒニクやウンチクが顔を出す。
日本とドイツは光が違うからレンズの設計も違うのだ、とのたまった写真家の例を述べ、「私はこの点を、ライカのレンズ設計者に直接質問したことがある。設計者はヘンな顔をして、少し考えた後、『世界中、どこでも光は同じだ』と答えた。当然である。この答えに私は安心した」など赤城節は健在だ。
　また後段は『カメラ至上主義！』と同様に、各メーカーの特徴や製品の傾向を分析する章となっており、ここにコシナやトプコンといった名前が並ぶのも嬉しい。
　ミラーレス機のヒットで注目を集める、マウントアダプターを介したクラシックレンズの楽しみ方や、コンパクトカメラについての言及も十分になされているし、ボディーとのマッチングやフードなどのアクセサリー類の効能も説いている。
　
　カメラを購入した際のキットレンズからワンステップアップしたい読者にはうってつけであり、また高性能ズームですでに撮影を楽しんでいる層に、単焦点レンズを購入するきっかけを与える書でもある。日々撮影を楽しむカメラファンから、マニアックなレンズの迷宮をさまよう人まで、ガイドとしても読み物としても、広くカメラを愛する人にお勧めしたい一冊だ。

（高畠保春）<br/></description>
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