

2月は、組み写真の応募がいっきに増えました。先月の講評を書いていた時点では、予想しなかったことです。組み写真の注意点については先月述べてありますので、参考にして下さい。
さて今月は、先月に引き続き応募の心得を、もう少し噛み砕いて解説してみようと思います。先月のこの欄で、個人的な関心事を題材にしつつも、いかにして写真で表現するかが腕の見せ所となることを述べました。とはいえ具体的には、どう腕を振るえばいいのでしょう。
親戚や知人の、お子さんやお孫さんのビデオを見せられて退屈してしまった経験をお持ちの方はいませんか? 自分の子供や孫はあんなに可愛いと思えるのに、なぜか他人のお子さんやお孫さんとなると、鑑賞するのに忍耐が必要となるでしょう。この現象は、他人のペットやガールフレンドの写真を見せられた場合にも起き得ることです。
表現することの出発点は、個人的な関心事が題材でも、他者に共感を得てもらうなんらかの作用をほどこすことだと考えることが出来ます。この欄では、心象を表した写真について、ひとりよがりに見えないように度々注意を促してきました。感受性の感度が上がっている時には、机の上のなんでもない置物でさえ自分に向って語りかけてくるように感じる瞬間があります。しかし、その写真を見てくれる他者も、同じ周波数で同期するとは限りません。
写真で表現をするには、思い入れや見たままをそのまま持ち帰るのではなく、もうひとつ、作者の変換能力が必要になるのです。その結果、見る者に作用し、心の中にさざ波が広がるような感覚を促した時、人は「感動」という言葉を使うのではないでしょうか。あるいは、感動とは言わないまでも、見る者の心に、せめて引っ掻き傷を残すようなことが出来たらと私は考えています。
カメラメーカーの開発努力により、失敗は少なくなり、よく写っている写真を容易に手にすることができる時代となりました。しかし、単なる「写っている写真」と「作品」と呼べるものとは全く違う次元にあります。このことを、「写真の殿堂」という場を通して皆さまと一緒に考えていきたいと思います。
例えば、この3作品には、目の前の情景の中に見えたまま以上のものを見いだし、写真に閉じ込めようと格闘した痕跡が認められます。このような試みは、表現者としての自覚と意識の高さを感じます。表現のスタイルこそ異なりますが、独自の写真表現を模索しているという点で、以下の3作品も気になりました。
後藤元洋氏(http://www.geocities.jp/chikuwagenyo/)は、いまなおシリアスにこの表現を追求し発表し続ける希有な写真作家です。ぜひ参考にされると良いと思います。
ところで、今回は、ひとつだけ選考基準の秘密を公開します。たとえばポスターの絵柄や看板の文字に語らせる写真は、写真を読み解く愉しみを奪うことにも繋がりかねません。もちろん、新しい可能性を感じられる場合においては、例外もあり得ます。チャレンジ精神旺盛な方は、ぜひ、挑んでみてください。






